お知らせ
二十代の頃、大学を卒業し、はじめて働いた東京・日本橋の地から滋賀・栗東に戻り、はじめて勤務したのは、国道八号線野洲川沿いにある栗東町立(今は市立)野洲川体育館でした。
テニス教室やバドミントン教室、卓球教室などを担当させていただき、働き方改革のない時代、公の仕事も当時は、朝の八時から夜の九時まで勤務することもしばしばあり、多くの栗東町民の方々と各種スポーツを楽しみ、時にはアドバイスもしました。
更に休日ともなれば、プライベートで仲間と共にラグビーに親しんだ体力の溢れていた若かりし頃が今も懐かしく思い出されます。
さて、東京オリンピックが様々な論議を呼びながら先ごろ閉会しました。
程なく連日開催されています高校野球の球児を見ていても感じるのですが、一流のアスリートほど『礼に始まり礼に終わる』ことの大切さを知っている人はいないのではないかと思います。
種目に関わらず試合が終われば相手を称え合い、互いに労い合う『ノーサイド精神』の姿を見るたび目頭が熱くなります。
ラグビーやボクシング、サッカーやバスケットの様に接触プレーがある競技。
また、バドミントンやバレー、卓球の様にネットを境にプレーする競技。
マラソンや競歩の陸上競技や体操、水泳など、個人の技やスピード、タイムを競い合う競技と違いはあれどそれぞれに相手があり、どの種目も自らが距離を測らなければなりません。
自分勝手に有利な距離を取ろうとしても、そこは相手があること。
物理的な距離感は簡単かもしれませんが、心情や人間関係、更には戦術がそこに加われば距離の取り方も様々で自分の思うようにはいかないのが常。
相手に合わせず、相手の好む距離を外すことの大切さを一流のアスリートになればなるほど、常日頃から練習で身体に覚えさせているのです。
『独りになりたい』『独りぼっちは寂しい』
孤立するのはいやなのに、土足で自分のエリア入ってこられれば不快になるのが動物。
人間はだれしも勝手気ままに自分の安心できる距離感を日々探している生き物なのかも知れません。
これまで日夜、自分が快適だと感じる微妙な距離を無意識の内に探っていたのに、新型コロナウイルスが拡大してからはそんな人の距離感さえも長期間にわたり奪ってしまったのです。
しかし今こそ、こんな時こそ『大人としての流儀』がその人に備わっているのかどうか。
その真価を『日々の距離感』から試されていると考えてみてはいかかでしょう。
人として、大人としての振る舞いが、瞬時の分別や優しさ思いやりが、コロナ禍の困難な時代だからこそ出来るかどうか。
非常時やストレス社会にあってこそ、その『人となり』としての重さや深さが測られるのです。
「あんな時代もあったよな」といえるその日まで・・・。
私自身、到底一流のアスリートには及びませんが、こんな時代だからこそ、挨拶と適時適切な『距離感』を意識しながら辛抱強く過ごしていきたい、そんな大人でありたいと思う毎日です。 (拝)