お知らせ
あの日の早朝、父と資金を出しあって年末に完成。
新築した自宅二階の寝室でいつもと違う突き上げられる様な揺れを感じました。
気づかずに隣で寝ていた妻と一階にいるであろう両親を慌てて起こし、「地震やで!」というや否や、一階のテレビのスイッチをつけました。
直ぐにテロップで関西地方で大きな地震が発生したことを知り、すぐさま再度二階へ。
電気をつけようと天井横を見ると、塗りたての抹茶色の土壁が斜めに大きくひび割れていたのを今でも鮮明に覚えています。
その日は、夕刻まで何も手がつかず、テレビの画面やラジオの音を聴くたび、神戸や淡路島を中心に京阪神で大変な事態が起きていることを時間の経過とともに徐々に知りえました。
発災数日後、いたたまれない気持ちから、食糧とリュックに詰めるだけのお米を持ち、尼崎のピッコロシアターで一緒に舞台・音響・照明の勉強をしていた知り合いの無事を祈り、大阪、塚本から西宮、芦屋、神戸三宮、元町へと丸一日かけて向かいました。
そして行く先々で変わり果てた街の姿に唖然としました。
戦争を知らない私ですが、子どもの頃、夏休みの絵日記の宿題「戦争の話を聞いて書こう」の課題で、京阪電車の運転手だった祖父から聞いた、大阪や京都の街が戦火でボロボロになった話や、祖母が体験した戦争のB-29に大空襲を受けたことや焼夷弾の恐ろしさをきいた様子そのままの光景が、歩いて移動するたび眼前に広がっていました。
電柱は倒れ、商店街の屋根は崩れ落ち、ビルの割れたガラスやシャッターが窓の外に放り出され、あたりから火災後の白い煙が天に向かってあちこちで登っていました。
そして、友人知人を探そうとしてもどこが避難所かさえわからない状態でした。
やっと皆と電話がつながったのは震災から一週間後でした。
あれから27年。
四半世紀の時が経ちましたが、当時1月15日だった『成人の日』の翌日位から大震災のことを毎年、思い出してしまいます。
これからも決して私はあの数日の光景を忘れることはないでしょう。
震災の翌年からは「何かできることはないか」と、今でいう「子ども食堂」の様な支援を神戸の震災孤児にしたいと『おうみフリーマーケット実行委員会』をたちあげました。
それからというもの二か月に一度、希望ヶ丘やアグリパーク竜王、野洲川運動公園やなぎさ公園、ららぽーと守山(当時)や、大津なぎさ公園や皇子山公園、守山や栗東の各街道やまちづくりイベント等々、滋賀県内各地でフリーマーケットを若者有志で開催しました。
当時、三宮にありました震災孤児施設『えんぴつの家』をはじめ各地で運営にかかった費用を除く売上金を寄付する活動も2001年まで行いました。
東日本大震災や、熊本地震、大雨大雪台風被害。
毎年の様に日本各地で発災する自然災害。
また、世界で次々と衰えることを知らず変異株が流行する新型コロナウイルス感染症。
当事者にならないと・・・。
現場にいかないと・・・。
自分自身が体験しないとわからないことがあること・・・。
真実と報道や噂には乖離があることをあの阪神大震災の現場で痛いほど知った1月17日でした。
あれから27年。
6434人の方々への鎮魂の思いと、現場を見ることの重要性を忘れることなくいつ起こるとも知れない自然災害や長期化する感染対策にこれからも真摯に向き合っていきたいと思う今日この頃です。
(拝)