お知らせ

『新聞』

 コロナ感染拡大以降、起床後の私のルーティンは自宅周辺を約三十分ウォーキングしEテレのテレビ体操を行なった後に一杯のコーヒーを飲みながら新聞を読むことです。

 

 小学生の頃、近所の新聞販売店でチラシ広告のはさみ込みを手伝いおだちんに菓子パンを一個もらってみんなで喜んで食べていたのも懐かしい思い出です。

 

 その頃から日常にはいつも新聞がありました。

 

 子ども時分から好奇心が強い性格も手伝ってか、朝刊紙面にそれまで知らない言葉や文章の言い回しがあるとワクワクし、本棚から国語辞典を取り出し(今ならスマホ検索?時代を感じます)すぐに意味を調べていました。

 

 大人になり、議員になった今でもその日の新聞は端から端まで読まないと風呂場や就寝時にまで持ち込む癖がなおりません。

 

 社会の『多事総論』を毎日確認できる新聞の公共性や、個人の言論の自由が担保されている多様性、また多くの国民が読んでいるという共感性も新聞のもつ魅力の一つでもあると私は思っています。

 また、人によっての価値観がそれぞれ違うこんな時代だからこそ、民主主義を支える公共財の一つとしても新聞の役割は貴重で大きいのではないでしょうか。

 

 スマホの画面で物事が調査でき、瞬時に判断が求められる世の中だからこそ熟考して『正確な情報の精度』がより重要なのです。

 

 ロシアのウクライナ侵攻が世界を震撼させ、震災や集中豪雨など多発する自然災害が次々起こり、新型コロナ感染の収束見込みが不透明な今こそ、日常的に多くの国民が恒常的に目にする新聞の『確かな情報』は命や暮らしを守ることにもつながっているのです。

 

 第二次世界大戦時、言論統制を受けた我が国の新聞は戦時体制下で日本国民の戦闘意欲を煽り立てたこともありました。

 

 こうした新聞の歴史を決して繰り返すことなく「責任ある真実を報道して欲しい」。

 「日々目にする新聞記事が正確で信頼しうる情報源として生活の傍らにこれからもあってほしい」

 

 記者さんの論調も性善的な見せ方でばかりではなく、時に批判的な視点も失わず人間味溢れた報道にもふれたい。

 

 そんなことを考えながら、明日も一枚一枚丁寧に冷静に紙面に目を通す私がいるのです(拝)